隠れたがる自然

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隠れたがる自然

本日読了.作者は物理学者シモン・マリン.
表紙がスリット状になってるのが,ちょっと面白い.

本書は,マッハ哲学,ボーア-アインシュタイン論争,局所実在論とベルの不等式,ホワイトヘッド哲学,プロティノス哲学などを解説し,量子物理学の解説というよりも,新しいパラダイム,新しい宇宙観を提示しようと試みている.

19世紀,エルンスト・マッハという哲学者・物理学者がいた.彼は様々な功績を残したが,今では音速の単位でしか知られていない.彼の哲学は極端な実証主義をとり,ニュートンによる絶対空間・絶対時間の概念を否定し,感覚を記述するシンプルなものだった.
鉛筆を一部水中にいれた際,手前に浮き上がって見える.しかし,そう見えるだけで実は真っ直ぐであることは触ってみればわかる.しかし,マッハは言う.水中の鉛筆と水から出ている鉛筆は二つの事実であると.水中の鉛筆は見た目の事実に反する限り,本当に折れ曲がっているのであって,この鉛筆について言えることはこれが全てである.同様に,鏡は左右反対の自分を写していないことになる.

マッハの絶対空間・絶対時間に対する疑念はアインシュタインに大きな影響を与え,ついに空間と時間を書き換える相対性理論を打ち出した.
もう一人,マッハ哲学の影響を受けた人間にハイゼンベルクがいた.彼はマッハの哲学を原子的現象に適用し,量子力学の根本原理 “不確定性原理” を発見した.これはミクロの粒子(電子や光子)などにおいては,位置と運動量が同時に定まることはなく,片方を正確な値にすると,もう片方が発散する.すなわち,位置と運動量の標準偏差をそれぞれ\langle x \rangle,\langle p\rangleとおくと,

\langle x \rangle \langle p\rangle \geq \dfrac{\hbar}{2}

という観測の限界,すなわち不確定さが存在する.

20世紀初頭に成立した相対性理論と量子力学はニュートン以来の古典的なパラダイムを覆した.しかし,これらは根本的に相容れない考え方を孕んでいた.自然の法則は統計的であって現在と未来の個々の事象は過去によって完全に決定されることはないとした量子力学は,ニュートン以来信望されてきた自然に対する厳格な因果性を要求する決定論と真っ向から対立する.決定論者のアインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言い放ったのはあまりにも有名である.

アインシュタインは実在論者であった.すなわち,あらゆる物質や現象が心や感覚の産物ではなく,誰しもが共有できる客観世界が存在していると信じており,その特徴は科学と科学理論とをと押して発見しうるものであると考えていた.(マッハは感覚以上の”実在”世界を指し示さなかった意味で実在論者ではなかった.)
また,彼は特殊相対性理論の帰結として”局所性”という概念を得た.すなわち,”光速よりも速く伝わるものは何一つない”という要求である.

これに対して,デンマークの物理学者ボーアは量子力学こそが自然の基本原理であるとし,ここに20世紀で最も知的な議論ボーア・アインシュタイン論争が始まった.

ボーアは強力な反論を持ち出した.EPRパラドックスと呼ばれる思考実験である.これはスピン0の粒子が二つの粒子A,Bに崩壊し,十分な時間をおいて粒子Aのスピンを観測して↑であったとすると,もう片方の粒子Bのスピンは角運動量保存則により自動的に↓と決定する.この際,二つの粒子が十分離れていたとすれば瞬時に遠方の情報を得ることになって,局所性に反する.

やがて,アインシュタインの局所実在論を証明すべくベルという若者が立ち上がり,局所性を定式化することに成功した.これはベルの不等式と呼ばれ,局所性が成立することとベルの不等式が成立することは同値命題である.
これは簡単に言えば,A粒子とB粒子のそれぞれのx,y,z成分でのスピンを複数回調べたとき,統計的に

(x成分が↑のA粒子とy成分が↓のB粒子の場合の数)\leq(x成分が↑のA粒子とz成分が↓のB粒子の場合の数)+(y成分が↑のA粒子とz成分が↑のB粒子の場合の数)

が成立する.
そして,この不等式を実験で検証したところ,ベルの不等式は破れていることがわかった.局所性は破れているのだろうか.
このことは,”信号”と”影響”は区別しなくてはならないということを明らかにした.つまり,EPR相関では粒子Aの観測者aは元の粒子の影響を受けて,粒子Bの情報を得ただけで,この情報の獲得は受動的である.観測者aは粒子Bの観測者bと情報伝達を行ったわけではない.aとbの間を伝播する”信号”を制御しているわけではない.これに対して”影響”は物理的実体の伝播ではない.”信号”と”影響”の区別は微妙である.”影響”は光よりも速く伝わり,”信号”は光よりも速く動けない.著者は「局所性とは,いかなる物理的実体も光よりも速くは伝播しえないこと」という意味において破られていないが,”影響”の伝播が光速を超える点でアインシュタインのパラダイム,局所実在論はあきらめなくてはならないと結論付けている.

こうしてほとんどの物理学者は,毎日アインシュタインのパラダイムに頼って生きているのに,ボーアの量子力学解釈を信望しなくてはならなかった.しかし,局所実在論を諦めた以上,新しい世界観は量子力学解釈の適用範囲を如何に広げていくかが問題になる.

量子力学の主役は波動関数(確率振幅)である.波動関数\Psiは一般に複素関数で,\Psi\Psiの複素共役\Psi ^{*}の積\Psi\Psi ^{*}が粒子の確率を示す.「電子がTVスクリーンに向かって進んでいる」という例を考える.

いま,「電子がTVスクリーンに向かって進んでいる」と書いたが,これは正しくない.これこそが既存のパラダイムに立脚した言明である.正しくは「衝突事象の前には,空間のさまざまな場所に,その位置の観測を実行すれば電子を見つけ出せる可能性の場がある.時間がたつにつれてこうした可能性は変化し,観測すれば,スクリーンに近ければ近いほど電子が見いだせる可能性はどんどん大きくなる.そしてついに,電子をスクリーン上に見いだす確率分布が存在するようになると,TVスクリーンそのものが位置観測装置として働くため,電子は実際にそこに<量子的事象>として見いだされ,目に見える点を生じさせるのである.」
つまり,可能性の場として存在していたのが,衝突を境に「収縮」して現実存在へと転化した.確率分布がただ一つの場所へと収縮したというわけである.しかし,ここで疑問がいくつか起こる.収縮はなぜ起こるのか,いつ起こるのか,といった疑問である.

最初の問に対する答えを著者は次のように与えている.「収縮の目的は単純化である.もし,収縮がなければすべての相互作用がどれも宇宙を極度に複雑なものとし,複雑さを増す傾向は収まることなく続いていく.」
二番目の問に対する答えは,著者はディラックの言葉を引用する.「『収縮はどのように起こるのでしょう?』『自然が選択するのです』『自然はいつ選択するんでしょう?』『干渉の可能性がもはや存在しないときでしょうね』」
ディラックによると,さまざまな可能性がたがいに干渉しあってコヒーレントなパターンを作ることができなくなったとき,収縮が起きるのだという.

しかし,自然がどのようにして他の可能性でなくある一つの可能性を選ぶのか,自然が選択するメカニズムとは何なのか,説明できた人は一人もいない.著者は,ホワイトヘッドの哲学を借りれば客体化の原理の適用限界を示しているのではないかとしている.つまり,自然は客体化された実体として考えてはならないという.自然という主観的な存在が,粒子のとある一つの可能性を選ぶ.これこそが「(収縮は)自然が選択する」という言葉の意味であるとしている.これはニュートン以来の機械論的な自然観を否定し,自然という主体を認めることになる.
このような古典回帰的な哲学はホワイトヘッドの特色であり,「西洋の全ての哲学はプラトン哲学への脚注に過ぎない」という有名な言葉を残している.

そこで,物理学者は正しい世界観を古代ギリシャの哲学者らに求めた.ハイゼンベルクやシュレーディンガーらもプラトンを読んでいたという.プラトンは現実世界に完全なものはなく,イデア界にこそ真理があるとした.我々はまるで洞窟に暮らす者で影と実物を取り違える.プラトンは現実世界からイデア界に接することはできないとしたが,彼の思想的後継者プロティノスはヌーメナル(プラトンでいうところのイデア界)はフェノメナル(現実界)と原理的に切り離されているが,私たちの経験のなかで注意と感受性によってヌーメナルの秩序と美に接することができ,物質とはヌーメナルを反射する鏡のようなものだとした.

プロティノス哲学はシュレーディンガーに大きな影響を与え,彼は次のように主張した「多数の身体があること,多数の自我があること,これらは自明である.しかし,多数の自我の存在から多数の自己が存在するという結論は誤りである.多数の夢の登場人物の背後に一人の夢を見る人がいるように.多数の自我の背後に唯一の精神,一つの自己がある.」

これは精神一性論と呼ばれている.我々は誰か他者の夢なのか.この世界はゲームの世界なのだろうか.
いずれにせよ,超越的な何かの存在を認める言明は時代を逆行するかのようで,いくら新しいパラダイムだと言われても,不信感を隠せない.本当に人間の霊性を携えたこのようなパラダイムが支持を得る日はくるのだろうか.
そして,もしこのパラダイムが世界のあり方だったなら,これまで我々のうち量子力学の根本原理を探求していた人々はありもしない実在を見つけようともがいていたということになる.

ホワイトヘッドは「現実性において存在しているものは経験されうるものである」と言い放った.たとえば,交響曲は人々の心に大きな感動体験を与えるが,ティーカップはただの陶器であるので,交響曲のほうがティーカップよりも現実性を備えている.
根本原理から目を背けるようなこうした哲学を受け入れて,量子力学は主に応用面で発展してきた.半導体,そしてその集合体であるコンピュータのような機械は間違いなく量子力学がミクロの世界で正しく適用可能であることを示している.

しかし,本当は誰も何も分かっていないのである.

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